泳ぐオダジン放送局

日々フラフラっと回遊しながら気づいたことをラジオでフリートークするようにお届けします。ラジオ好き、少年ジャンプ好き、ハンバーガー好き、ヒトが好き。※本ブログの内容は、私個人の考えです。所属する組織・団体とは関係ありません

花粉症の薬を止めてみた

大人になってから花粉症になった私。

30過ぎからは病院で処方してもらった抗アレルギー薬を飲んでいる。

飲み始めた頃は、朝と夜に1錠ずつ飲んでいたのだが、眠気がひどくなり、医師に相談したところ、夜1錠だけにすることになり、以来ずっと、2月〜5月くらいの期間中は毎年処方してもらって同じ薬を飲んでいた。今年も同じ薬を飲んでいた。

 

今年は花粉症を自覚するタイミングが遅く、2月末になって薬を処方してもらって飲み始めていた。

 

3月4日くらいから体調がすぐれない日々が続いていた。

最初はイベントで京都に行ってきた疲れかなと思っていた。

朝、眠くていつもの時間に起きることができない。

日中に眠気とダルさが襲ってくる。

仕事が手につかないくらいの状態になるのでお昼後に少し休む日が増えた。

気分的にもスッキリせず、やる気が出ない。

ちょうど気持ちがザワつくことが続いていたので、そのせいかなと思っていた。

 

2日前、会社の同僚にこの話をしたところ「花粉症の薬の影響では?」と一言。

 

ハッとした。

 

去年まで10年ちょっと飲み続けていて、副反応をここまで感じたことがなかったので、飲んでいる抗アレルギー薬は、自分の体に問題ないものだと思い込んでいたのだ。

 

昨夜、抗アレルギー薬を飲まなかった。

 

今朝の目覚めは昨日までよりも悪くなかった。

ぐっすり眠れたわけでもなく、睡眠時間も短めだったのにだ。

日中も眠気とダルさで動けなくなるようなこともなかった。

 

絶対これだとは言い切れないが、可能性は高いと思われる。

 

本来、薬を止めることは素人が判断しない方がよいと思うが、抗アレルギー薬を飲まなかったら、花粉症で鼻水が出てきて、目が痒くなるだけで、私の命に悪い影響を及ぼすわけでは無いので、しばらく止めてみることにする。

 

薬を止めて眠気とダルさが出なくなっても、花粉症で苦しい状況になるようであれば、薬を変えてもらえるか、再度病院で医師に相談してみることにしよう。

 

薬は変わらなくても、自分の身体が変わったということなのだろう。

まさか、こんな形で、自分の身体的な変化を感じることになるとは。

 

これも加齢のひとつなのだろうか。

 

素敵な明日を

ファミマのプリンの名前についての見解

私の推しコンテンツ「ネーミングけんきゅーラジオ」の「ちゃこ先生」が、Xにこんなポストをされていたので、けんきゅー員001号として、私なりの見解を書いてみる。

今回の対象商品はこちら。

  1. スフレ・プリン
  2. プリンサンド
  3. プリンタルト
  4. 窯出しとろけるプリン

1「スフレ・プリン」

「・」が真ん中に入っている理由、これはおそらく「スフレ」と「プリン」が混ざっていないことを意味しているのではないかと思われる。

写真を見る限りではあるが、「スフレ」と「プリン」を上下に重ねている形状のように見えるので、上の方だけ食べればスフレだけ食べられるし、スフレを食べ終えたあとに下の方に残ったプリンだけを食べることもできそうだ。

もちろん、食す人がスフレとプリンを一気に上から下まで掬い取って食べることで、口の中でマリアージュを楽しむこともできるが、あくまでスイーツとしてはスフレとプリンを混ぜていないということを意味する「・」なのではないだろうか。

そして「スフレ・プリン」と、プリンが後に来ている点だが、今回のキャンペーンが「プリン」関連商品のキャンペーンのため、「プリン」を後ろに配置することでプリンを強調したのではないかと思われる。「プリン・スフレ」だと後ろにきているスフレの方が強調されて聞こえる。商品の形状的にもプリンが下にあり土台を形成していることからプリンが後にきているのではないか。

名前の前後どちらを主体とするかについては「カレーライス」「ライスカレー」論争に発展しそうだが、ここでは止めておくことにする。

2「プリンサンド」

このプリンサンドに「・」が入っていない理由は、プリンをスポンジで挟むことで1つの形成されたスイーツになっているからだと思われる。「スフレ・プリン」の逆のパターン。

これに関しては類似の商品名からも「・」を使わないという事例を多数見つけることができる。「たまごサンド」「ハムサンド」「カツサンド」これらの商品名に「・」を使っているケースを見ることはほとんどない。サンドイッチはパンの間に具材を挟むことで1つのサンドイッチという料理が形成されるため、「・」を間に使ってしまうと、サンドイッチとしての一体感を感じられなくなってしまうように思う。

プリンが主体なのに「プリンサンド」と前にプリンが来ている理由は、上記のとおりサンドイッチの商品名は「具材+サンド」が通例となっており、その通例に則ったのではないかと考えられる。また「サンドプリン」だと「砂漠のプリン?」のような誤解を与える可能性があるのではないかと思われる。鳥山明さんの「サンドランド」の映画を想起させること・・・ないか。

ここでお気づきかもしれないが、この「プリンサンド」プリンではなく「サンドイッチの亜種」であることがわかる。プリン関連商品のキャンペーンなのに良いのか?と思ったが、キャンペーンの名前をよく見てほしい。「最高プリン登場!」ではなく「最高!プリンスイーツ登場!」なのだ。「プリンスイーツ=プリンを使ったスイーツ」と解釈するならば、サンドイッチの亜種である「プリンサンド」がこのキャンペーンの商品にラインナップされていることに違和感がなくなる。実はキャンペーンの名前もよく考えられているのである。

ちなみに「サンドイッチ」「サンドウィッチ」論争には発展しないでほしいし、伯爵が考えたからこの名前なんでしょ?というジャポニカ学習帳トリビアをひけらかすのも止めておいてほしい。

3「プリンタルト」

プリンタルトについてはプリンサンドと同じ理由で説明ができるのではないか。

「・」が入っていない理由は、プリンをタルトの具材として使用することで1つの形成されたスイーツになっているし、タルトの類似商品名も「いちごタルト」「フルーツタルト「モンブランタルト」など「・」を使うケースを見ることはほとんどなく、「具材+タルト」が通例となっているため、プリンが後ろではなく前に来ているものと思われる。

タルトタタン」はタルトが前じゃないか!と突っ込まれそうだなと思ったので調べてみたところ、タルトタタンは通常のタルトとは逆の順序で作るため「タルトタタン」と呼ばれているそうだ。こういうことを発見できるからネーミングは楽しいし止められないのである。

商品写真を見ると、商品の見栄え、見た目のインパクトを強くするために、プリンをドーム型にしたのだと思われるが「ドームプリンタルト」のように名前に「ドーム」を入れなかったのは、見ればドーム型というのは伝わるから省略したのだろうか。プリンサンドも「ふわふわスポンジプリンサンド」のような名前にしなかったのは、同じような理由だろうか。

見た目のインパクトが強い場合は、名前をシンプルにするという法則は商品のネーミングのセオリーとしてあるのかもしれない。

4「窯出しとろけるプリン」

最後の「窯出しとろけるプリン」この商品だけ、ただのプリンなのだ。「窯出しとろける」はプリンの修飾語なので、間に「・」が入る必要はなく、後ろにプリンが来ることになんらの違和感もない。だってただのプリンなんだから。そう思うと、「プリンスイーツ」じゃなくて「プリン」じゃねーか!とツッコミが来てしまうのではないかと、少々心配になってしまう。ラインナップの中で唯一のちゃんとしたプリンなのに。そしてこれは筆者の予想だが、きっとこの商品がシンプルに美味しいやつなのに。

他の3商品と比べて見た目にインパクトが無い分、商品名でインパクトを出そうとして「窯出し」と「とろける」の2語をプリンの前に使ったのだと思われるが、商品名が長くなってしまい、他の3商品と比べると圧倒的に呼びづらい名前になってしまっていることが気になる。商品写真にはオノマトペの「とろん」を使用しているので、シンプルに「とろりんプリン」くらいでも良かったのではないだろうか。窯出しというのはそこまで重要なのだろうか。コンビニの商品は「窯から出してすぐ」なわけないことは誰にも明らかなのに。

ちなみに「とろりんプリン」をGoogleで検索してみると、いくつかのお店の商品名として使用されていることがわかる。この辺りは当然ネーミングにおいて先行商品との被りを気にしているのかもしれない。特許情報プラットフォームで商標登録されているか調べてみたが商標は未登録だった。

4つの商品に使用されているオノマトペ

今回のキャンペーン広告を見ると、4つの商品それぞれにオノマトペがついている。窯出しとろけるプリンは前述のとおり「とろん」である。他の3つも見ておこう。

  • しゅわ:スフレ・プリン
  • ふわっ:プリンサンド
  • ほろっ:プリンタルト
  • とろん:窯出しとろけるプリン

「しゅわ」はスフレの口溶けを表していると思われる。美味しいスフレは本当にしゅわっと口の中で消えてなくなるような食感なので、納得のオノマトペだ。

「ふわっ」はサンドに使われているふわふわのスポンジの食感はもちろん、ホイップクリームのやさしい感じも表しているのでは無いだろうか。こちらも納得のオノマトペだ。

「ほろっ」これはタルト生地のほろほろした食感を表しているのだろうか。タルト生地はしっとりしているがボロボロと崩れてこぼれやすいので、納得のオノマトペだ。

と、3つのオノマトペに納得してしまったのだが、ちょっと待ってほしい。これらの3つのオノマトペは全て「プリン以外」の部分を表しているではないか。プリン関連商品のキャンペーンなのに、果たしてこれで良いのだろうか?ちょっと納得がいかなくなってきた。

しかし、ここで効いてくるのはキャンペーンの名前だろう。今回のキャンペーンはあくまでも「プリンスイーツ」プリンを使ったスイーツのキャンペーンなわけだから、必ずしも主体がプリン以外でも、プリンが使われていればOKということなのだろう。

 

さて、4つの中から何を選んで食べてみようか。

 

ネーミングけんきゅーラジオのYouTubeチャンネルはこちら。チャンネル登録お願いします!

https://www.youtube.com/channel/UCnekxyPzhzT71Q24qRcyHLQ

 

YouTubeのコンテンツの音声をポッドキャストで聴くこともできます。フォローお願いします!

https://listen.style/p/nemikenradio

https://open.spotify.com/show/5LmusQ9SHm66FwJ1ieZaur

 

 

ファミマ公式のキャンペーンページはこちら。

https://www.family.co.jp/campaign/spot/2403_puddingsweets_08ephTKn10.html

ふと思い立って書く

Hatena Blogを開いたのはいつぶりだろうか。

前回の投稿が2022年1月28日だから、2年ちょいぶり。

 

あれ?UI変わったのかな?と思ったのだけど、すぐに気づく・・・

どんな感じだったか忘れていることに。orz

 

2017年7月3日から2019年7月7日までの丸2年間ちょい(735日間)毎日1記事アップしていたのに、UIは印象に残っていないものだなあと思ったのだけど、すぐに気づく・・・

いつもスマホで書いてたじゃん。今はPCで書いている。orz

 

前回の投稿で、noteを書き始めたと宣言していたのだが失礼な話だ。

最近はLISTENで声日記を毎日投稿して234日が経過した。これはセーフだと勝手に思っている。w

 

運動も早寝も毎日続かないのなんでだろう。

今、25時。w

 

寝よう。

 

素敵な明日を

noteを書き始めた

はてなブログにこのタイトルはどうなのだ?と思いつつ。

ブログとは別に、noteを書き始めることにしてみた。

なぜ今さら?というのは自分でも思ったけど、このブログは日々の思ったことを色々と書いてきていて、これはこれで残しておきたいし、これからも日々の思ったことをちょこちょこ書いていくと思うので、そういう使い方をしていこうと思っている。

一方で、自分の好きなことや趣味のことについて書くことをやっていくことにしたので、はてなブログとは別に、noteでやり始めてみることに。

ほとんど更新していないこのブログを今どれだけの人が見てくれるのかわからないけど、リンク貼っておきます。

note.com

2022年に僕が奈良に遊びに行くことが決まった日

はてなブログのアプリを起動してから30分くらい、フリック入力が進まない進まない。w

 

そろそろ右手の親指が下から上に大きく画面をスワイプしたがっているのを感じる。ブログを書かなくなって久しい私、書く力の衰えを痛感している。

 

こういう時に思い出すのは中学時代の陸上部顧問の言葉。

 

「練習を1日休んだら3日。3日なら1週間。1週間なら1ヶ月。取り戻すのにかかるぞ。」

 

私のブログ筋はどのくらいの期間で取り戻せるのか、自分でも楽しみだ。

 

さてここで、はてなブログのアプリを起動してから1時間くらいが経過した。

 

3時間くらい前までの私ならここで挫けていたと思う。今も外の寒さに指が悴んでちょっと挫けそうだけど(歩きスマホ止めよう)、それでも書くことにトライしてるのは、今夜、ブログを再び書き始めてみようと思う出来事があったから。このタイミングを逃したらイカンという直感が働いているから。よくわからないキッカケだったけど、スイッチが入ったから。読んでる人にはなんのこっちゃサッパリだ。w

 

前提を説明すると、直近の10月、11月と、調子良い状態が続いていたが、11月の後半に家族で風邪をひいたあたりからフィジカルの調子が落ちて、重なるタイミングでいろいろあってメンタル的にも調子が落ちて、パフォーマンスも落ちて、そんな中でいろいろ考えることも多くて、しんどくなっていた。

 

そんな状態なのにこのブログを書き始めて、書き終えるところまでいこうとしている、自分を褒めよう。盛大に褒めよう。

 

え?何があったのかって??

 

 

ヒミツ。w ← なんだそれ!

 

 

友人2人とご飯食べながら会話してて、ある会話をキッカケに私が盛り上がり出して、その様子を見ていた友人たちからは「今、何があった?」と確認が入るくらいにわかりやすい変化だった。自分でも「あ、今テンション上がってる」ってわかった。

 

 

会話の中身や私のスイッチが何だったのかについてはあえて書かないでおく。

 

 

代わりに、来年、その友人たちと奈良に行くことが決まった(と私は思っている)ことをここに記しておく。

 

 

素敵な明日を

「サスティナブル・キャピタリズム」長坂真護さんの活動を知って思ったこと

9月1日から別居して実家暮らしの私は、お昼ご飯を食べながら両親が見ていたテレビに釘付けになった。

www.tv-tokyo.co.jp

テレビ東京の「エンドロールで見っけ!このNIHONJINって誰?」という番組で「長坂真護さん」という美術家を紹介する内容に衝撃を受けたのだ。

記事が長くなったので目次を貼っておく。私の記事は読まなくても良いので、ぜひ動画2つと本記事の下部にリンクを貼った長坂真護さんのWeb記事は読んでいただきたい。

e-waste(電子廃棄物)の廃棄場所アグボグブロシー(ガーナ)

まずは、Still A Black Starという長坂真護さんがガーナのアグボグブロシーで活動されている様子を記録したドキュメンタリー映画の紹介VTRを見てほしい。


www.youtube.com

恥ずかしながら、e-waste(電子廃棄物)という言葉を今日初めて知ったし、それがガーナのアグボグブロシーという場所に世界最大規模で集まっていることも初めて知った。もちろん長坂真護さんのこともだ。

長坂真護さんは、雑誌に掲載されていた写真を見てアグボグブロシーのことを初めて知り、実際に現地に赴いたそうだが、それは彼がアーティストとしての感性・衝動によって起こした行動ではないと思った。ひとりの市民として・人として行動したのではないだろうか。映像で見るだけでもそのくらいの衝撃がある。

実際、私は番組を見た後、TwitterFacebookでStill A Black Starの動画をすぐにシェアしてしまった。普段、とりあえず動画や記事だけをシェアすることも、社会課題に関することをつぶやくことも、あまりやらない私がだ。何を訴えたいのか自分の意見や考えもよくわからないままだとしても、この動画を一人でも多くの人に見てもらうことは、今、自分にすぐできることだと思い、気づいたらスマホを操作していた。そして、今これを書いている。

長坂真護さんとは、どんな人なのか

美術家としてアグボグブロシーの電子廃棄物を使ってアート作品を作ることで現地の廃棄物を減らし、アート作品を販売して得た収益を使って、アグボグブロシーにガスマスクを届けたり、学校を設立したり、ミュージアムを作って観光産業を起こしている人とテレビでは紹介されていた。これだけだと、アーティストとして活動しながら環境活動を行う人のような見え方が強いが、それだけでは無さそうだなと思い、長坂真護さんのことを調べてみた。

オフィシャルのプロフィールを見ると「MAGO CREATION株式会社 代表取締役美術家」と書いてある。以下に紹介する動画の中でご本人が話していた内容や本記事の下部にリンクを貼っておいたWeb記事の内容をざっくりまとめると、

美術家としてアブボグブロシーの電子廃棄物を使うことで

1年間に500〜800kgの廃棄物を現地から減らし

年間600点以上のアート作品を作って販売することで

アート作品を通じて世界中の人にこの問題を共有し

年間で売り上げた数億円の収益をアグボグブロシーに循環させているだけでなく

電子廃棄物が現地に流通してくることを活かして

これからアグボグブロシーに工場を建設し

現地に雇用を生み出し

プラスチックをリサイクルして

プラスチックの再生原料として社会に循環させつつ

事業として収益を上げて

文化と環境と経済を循環させようとしている人

なのだ。

サスティナブルではないからという理由で活動に関する寄付は受けないポリシーで事業運営しているそうで、社会課題を解決しながら、文化的な価値も向上しながら、ビジネス・事業として収益を上げながら取り組んでいる。それだけでなく、自身が美術家として活動ができなくなっても、この活動が持続可能になるように、新しいプロジェクトも動き始めているという。アグボグブロシーの映像や現地の状況も衝撃的だったが、それ以上に長坂真護さんのこの考え方や活動が衝撃的だった。

作品が1点1,500万円で売れた!のような紹介だけを聞いてしまうと、美術家としてのスゴさのみが強調されてしまうと感じるが、これについても動画の中では自分の作品が1,500万円で売れた理由について、自分の価値ではないと明言したうえで相対性理論を用いて解説している。

詳しくは、UNEP(国連環境計画)のイベントで、自身の取り組みについてご本人が話している様子(以下のYouTube動画)を見てもらうのが良いと思う。

「サスティナブル・キャピタリズム

「地球にいいことして稼ぎまくって何が悪いんだ」

という言葉が出てくるが、事業家としての長坂真護さんの考え方が伝わってくる。

ちなみに、検索するとYouTube上にはビジネスイベントで熱く語る長坂真護さんの様子を見ることもできるが、UNEPのイベント動画は落ち着いて話していて、じっくり聞けるのでオススメしたい。


www.youtube.com

環境問題・社会課題に直面した時の自分の思考

他人事だと表面的にしか問題を見ない

「100億円でアグボグブロシーにリサイクル工場を建てる」と聞いたときに、私が真っ先に思い浮かべたのはこんなことだった。

電子廃棄物をこれ以上現地に流れていかないようにした方が良いのでは?

自分の発想・思考がサスティナブルになれていないなと痛感してしまった。同時に、環境問題について、問題の本質をよく考えずに表面的にしか見ないで解決策を考えていて、自分の首を締めるような状態や、問題を他所に移すだけの状態に陥ってしまい、自分が思考停止していたことにも気付かされた。

例えばアグボグブロシーの問題は、現地に電子廃棄物が持ち込まれていることだと捉えて、アグボグブロシーにこれ以上電子廃棄物を持ち込まないようにしようと考えてみると・・・

  • 行き場を失った電子廃棄物をどこに捨てるのか?
  • 他の場所なら良いのか?他に持ち込んだら同じことが起きるのでは?
  • 電子廃棄物でお金を稼ぐ現地の人たちの仕事や収入はどうなる?
  • 電子廃棄物を生み出さないように捨てない、買わない、使わない、作らないってできる?

ぐぬぬぬぬ・・・となってしまう。

仕事では「表面的な対処ではなく、本質的な解決をやりましょう!」などと偉そうなことを言う場面もあるのに(言うだけじゃなくて実際に取り組んでいるときもある)、環境問題や社会課題に対して表面的にしか見ていないのは、自分の中で、やはり他人事だと思っているからなのだと思う。

番組の中で、アグボグブロシーの現地の人が「他の人は1回来たらおしまいだが、マゴは戻ってきてくれる」と言っていたのが、つまりそういうことなのだろう。長坂真護さん自身も「天命」とインタビュー記事の中で言っている。

変わりたく無い気持ちと傍観者の立ち位置

それともうひとつ、日本という国に生まれて、ありがたいことに健康で安全で便利な暮らしが出来ていて、その暮らしに満足しているし、変えたくない・変える必要がないと自分が思っているからだとも思う。

東日本大震災の後に原子力発電が問題になった時も、脱炭素・カーボンニュートラルで火力発電が問題になった時も「電気の無い生活はありえないから、しゃーないよな・・・」と思っていたし、プラスチックの海洋廃棄物が問題になった時も「プラスチック製品をゼロには出来ないよな・・・」と思っていたし、気候変動に与えるお肉の影響が問題になった時も「ハンバーガー大好きだから食べちゃうよな・・・」と思っていた。

日々の生活で、マイバックを使うとか、できるだけ余計なものを買わない・もらわないようにするとか、ゴミは分別して捨てる・リサイクルに出すとか、こういうことは人並みにやっている。何もしていないわけではないけど、何かを自分からしようとはしていない。

特に自分の仕事は電力関係・製造業・飲食業など、事業が環境問題に直接的に関係する仕事ではないからな・・・と思って、環境問題は自分の仕事とは関係ないなと他人事だと思っていたし、直接的に関係する人たちがなんとかするだろうと思って傍観していたのだと思う。海外のこととなれば、なおさら傍観の度合いは高くなってしまう。

環境問題に対して活動・行動・発信している人たちに強く賛同することもなければ、非難の言葉を浴びせることもしなかった。環境問題に関する情報に触れても、自分のこととして出来ることをやることも、どういう考えを持っているのか発信することも、そもそもじっくり考えることも調べることも見に行くこともしてこなかった。

長坂真護さんから受けた衝撃の正体

長坂真護さんは、私のような浅い問題解決でないことはもちろん、アグボグブロシーが大変なんだ!電子廃棄物が問題なんだ!と問題提起するだけでも無いし、真の問題解決を行っている人だと思う。そしてアートと環境問題という、直接的な繋がりがないように思えるもの同士を結びつけて、社会貢献ではなくサスティナブル・キャピタリズムとして事業にされている人だ。

私は経営者ではないが、企業経営者が長坂真護さんのアート作品を買っていくというのはわかる気がする。SDGsやESGを掲げてグローバルカンパニーが率先してやってきたこと、日本の大企業でも今まさに始めようとしてなかなか始められていないことを、長坂真護さんが個人で始めて既に成果を出し始めているからだ。

何がどういうタイミングで衝撃になるかわからない

企業研修の仕事をしていると、学習や行動変容を起こすための動機付け・モチベーションの向上について相談を受けることがよくある。シンプルに言うと「どうすれば火をつけられるのか?」ということだ。「凝り固まった人たちにガツンと衝撃(インパクト)を与えて欲しい」なんてちょっと過激な言い方をされることもある。

先人たちの研究の成果をお借りして、動機付けについての理論的な説明はできるし、理論的に正しいアプローチをすることはできるが、いつどこで何が衝撃になるかわからないものだなと改めて思った。同じものを見ても衝撃になる人とならない人もいるし、もしかしたら半年前の私だったら長坂真護さんのことやアグボグブロシーのことを知っても衝撃にならなかったかもしれない(たぶんなっていない)。今回は、ちょうど仕事でESGについて調べたり、実際に取り組みを考え始めたりしていたからだったのだろうなと思う。良いタイミングで知ることができてよかった。

別居して実家にいなければ見ていなかったし、お昼ご飯を両親と一緒に食べてなかったら見ていなかったし、偶然にテレ東を流していなかったら見ていなかった、そう考えていたら、Planned Happenstance Theoryを思い出してしまった。

自分の仕事や生活でこれから何を目指していくか

話を戻そう。

先ほど紹介した、UNEPのイベント動画の中で長坂真護さんが最後に話していた、この2つの言葉が印象に残っている。

消費に対してネガティブにならず、消費しまくって地球を綺麗にする、そう言う道は絶対人間はできると思う。
ペットボトルでドリンク一本飲んだだけで罪悪感を感じちゃうので、じゃなくて、そのペットボトルをもう一回ペレット(ペットボトルの原料)に戻せば良いじゃん、そういった活動をしていきましょう。

仕事ではキーワードとしてSDGs、ESG、CSVという言葉が出てくる機会が割とあって、それぞれ説明を聞いて知ってるつもりになっていたが、腹落ちしていないというか、納得感が弱いというか、自分事にはなっていなかった。

長坂真護さんの活動を見て知って、自分からこれらのキーワードに近づいてみようと思えたし、これらのキーワードを自分がどう捉えていくのか、仕事や生活の中で何をやっていったら良いのか、ヒントをもらえたように感じている。まだ具体的な何かが芽生えたわけではないが、今日感じたことを曖昧にせず、こうして可視化したことが、きっとその一歩目になったはずだ。

 

素敵な明日を

※いつもこの言葉で締めくくっているが、改めて自分にとっての素敵な明日とは何なのか考えることから始めてみよう

 

長坂真護さんのことについて紹介されているWeb記事など

以下、調べたサイトなどを記録として貼っておく。

www.magogallery.online

news.yahoo.co.jp

industry-co-creation.com

www.news24.jp

toyokeizai.net

 

note.com

www.greenpeace.org

www.huffingtonpost.jp

www.vogue.co.jp

business.nikkei.com

コロナで別居、始めました。

別居という表現には、なんらかの理由で夫婦仲が悪くなり、一時的に離れて暮らすことで何かが落ち着いたり、何かが変わったりすることを期待するか、もう後戻りできないレールの上を走り出してしまったか、そんな印象がありますが・・・

コロナで別居を始めたのは事実ですが、夫婦仲が悪くなったわけではありません。

ではなぜ、別居を始めたのか・・・、妻と話し合った結果、「夫婦二人ともコロナに感染し、重症化してしまうことが、今、最も避けるべきことではないか」となり、子供たちの小学校が始まるタイミング(9月1日)と合わせて、私が自宅を出て、近所の実家で寝泊まり&在宅勤務することにしました。

私と妻の2回目のワクチン接種が完了するタイミングが9月18日なので、9月25日くらいまでは別居生活を続ける予定です。子供たちの通っている小学校の状況、地域の感染拡大や医療機関の状況の変化を見つつ、もちろんですが(あって欲しくないけど)万が一、子供たちと妻の体調に変化があった場合などは、臨機応変に対応していきます。

別居を始めるに至った経緯を書いてみます。

ここからは、自分の今の考え、気持ちを整理する意味でも、そのような判断に至るまでの経緯を記してみたいと思います。面白い話題ではないし、特にオチも用意しているわけではないので、そこんとこよろしくお願いします。

考え始めたきっかけは、今のコロナの感染拡大の状況で、小学校が始まったら、子供を経由してさらに感染が拡大してしまうのではないか?という疑問が湧いてきたところからです。

8月になってから、救急搬送の受け入れができないというニュースが続き、コロナどころか怪我・病気・事故など、理由はなんであれ、今なにかしらの健康上の問題が起きたらどうしよう・・・、そんな心配・不安が強くなりました。

幸い、私はほぼ100%在宅勤務で仕事ができていて、妻は専業主婦なので自宅にずっといて、子供たちは夏休みでも遊びに行かず自宅待機状態だったので、子供たちの夏休みが始まってからの我が家は感染リスクの低い生活ができていました。ありがたいことです。

そんな我が家にとっては、子供たちが小学校に行くことが(なんの対策もせずに全員出席で教室で授業をして給食も食べるという状況であれば)最もコロナの感染リスクの高い状況になってしまいます。学校での感染事例や、子供たちの発症例や重症化の例などをニュースで見るたびに、「なぜ、夏休み明けにしばらくの期間、休校するという判断をしないのだろうか?」疑問でした。

もちろん子供たちの「学びを止めない」ことや、家庭の事情で子供たちを家に居させることが難しいケースがあること、学校に行かせた方が子供にとって良いケースもあること、一斉休校が誰にとってもベストな選択にならないことは承知しています。それでも私が、休校にした方が良いのではと思ったのは、医療機関が救急患者を受け入れられないという異常状態だからです。今はとにかく、これから新たにコロナに感染する人を減らし、既に感染してしまっている人たちが回復して、医療機関の状態を落ち着かせることが大事だと考えています。

そのためには休校とまではいかなくても、「なんの対策もせずに通常の状況で夏休み明けの学校をスタートすることはありえない」と夫婦の意見は一致しました。

そんな中、8月27日の夏休み明けスタートに向けて、なかなかアナウンスがなかったので、「夏休み明け、子供たちを休ませようか」と私から妻に提案しました。「学校側の対応次第だよね」との反応受けて、学校の対応を想定しつつ、自分たちにできることとして、どんなことがあるのかを話し合いました。

小学校の夏休み明けの対応について最初に出てきたアナウンスは、「短縮授業」という名の正直なんの対策にもなっていないプランでした。短縮授業の説明に書いてあったのは「全員出席、給食を食べて、5時間授業」です。短縮=6時間目をやらないことにどれだけの効果があると考えたのでしょうか・・・。もうかれこれ1年半近くの間、「3密がダメ」「複数人で一緒に飲食するのがダメ」って、これだけ言われていて、感染者の事前行動の聞き取り結果を見ても、まさに3密と複数人の飲食が多いのに、「密で一緒に給食とかありえないっしょ」と小学5年生も言うくらいの意味のわからない短縮授業プランに我が家は呆れました。

「もしかして、夏休み期間中に何も対策考えてなかったの?」「元に戻ると思ってたの?」と、意味のない夫婦での言い合いになってしまいました。

私と妻の間では、以下のような対策はあって良いのではないかと話していました。

◆学校開始時の対策

  • 密を避けるための分散登校
  • 複数人での飲食をしないための給食なし
  • 教室への消毒液の設置(夏休み前まで置いてなかったと聞いてびっくり)

◆学校開始前の対策

  • 教職員のPCR検査の実施
  • 教職員のワクチン接種
  • 生徒および家族のコロナ感染・濃厚接触がないかどうかの調査

◆今後に向けた対策

  • オンライン授業のトライアル実施(本当はすぐにでも始めてもらいたいですが、これまでの学校の様子から、この短期間では無理だと思いました)
  • 教室授業とオンライン授業の選択制の導入

そして、次に出てきたアナウンスは、「市内の小学校は休校。8月31日まで。」でした。休校と聞いて「英断!」と思ったのですが、8月31日までということは、登校日で3日間の休校です。次の瞬間には、こんな思いが駆け巡りました。

これまで何も考えていなかった(それに等しい)と思われる人たちが、3日間で何をどれだけ準備できるのだろうか・・・、もっと前からやっとけよ・・・、3日間先に延ばして様子を見たところで結局「短縮授業やります」だったら何の意味もないよ・・・、9月1日からの対応についてはいつ案内が来るんだろうか・・・、横浜市は大丈夫なのだろうか・・・。

我が家もどうするかの結論を出せないままでいると、神奈川県が8月26日に教育現場での感染拡大防止の強化についてアナウンスを出しました。よく言ったと思いつつ、もっと早く言えたんじゃないのだろうかとも思いました。この後に横浜市「県の要請を受けて」と前置きのもと、短縮授業ではなく分散登校の方針(この時点では正式な発表ではないし、具体的な対応はまだ何もわからずでした)を出してきたので、意思決定の所在やプロセスの不明確さを感じてしまいました。こういうときに思い出すのは踊る大捜査線のワクさんとムロイさんのシーンなのは、アラフォー世代特有でしょうか。

小学校を9月1日から始めることは決まっているようだったので、我が家もどうするか決めないといけなくなりました。分散登校なら全員出席よりも感染リスクは低くなるだろうと判断し、子供たちは学校に行かせることにしました。既に夏休み明けの学校がスタートしている地域の様子を見ていると、最悪の事態(子供が学校でコロナ感染してしまうこと)は想定しておいた方が良いと思い、その際にどうなることを避けるべきかと話し合った結果が、冒頭に書いた「夫婦二人ともコロナに感染し、重症化してしまうことが、今、最も避けるべきことではないか」でした。

ちなみにこの想定は、子供たちは感染しても重症化しないだろうという楽観的な前提のもとに考えています。ここは正直、相当悩みました。子供たちがコロナ感染して重症化するリスクを避けようと思ったら、現時点では自主的に休むことしか選択肢がない状態だと私は思います。

せめて、医療機関の状況が改善されて、万が一重症化しても即入院できるような状況になるまでは休校させても良いのではないかと何度も思いました。大人でも子供でも、重症化してしまったら、即入院できたとしても、命の危険はあると思いますので、つまるところリスクはゼロにはならないと思います。だからと言って、何も考えず、何も対応せず、家族全員でコロナに感染してしまうのも違うよなと思いました。

  • 私:在宅勤務で自宅にいる、出かけても近所に買い物
  • 妻:専業主婦で自宅にいる、出かけても近所に買い物
  • 子供たち:自宅と学校の往復

改めて、このような状況の我が家としては、家族の中での感染リスクの順位は、子供たちが学校で感染してしまう可能性が1番高く、子供たちが感染してしまったら家庭内で私と妻に感染することは避けられないだろう考えました。そうなったときに、私か妻のどちらかが感染せずに看病や諸々の対処ができる状態にいることが良いのではないかと考えました。

そうなると、子供たちが学校に行き始める9月1日から、私と妻のどちらかが自宅を離れて、どこかで暮らす必要がありました。そう、別居です。

私には自宅から10分くらい歩いたところに両親が住んでいる実家があります。両親はワクチンを2回接種済みですが、高齢なので、感染の疑いがある状態、濃厚接触者になってしまってから、両親のいる実家で過ごすのは、両親にとっての感染リスクを高めることになってしまいます。それは避けるべきことなので、子供たちが学校に行き始めた後からでは遅いと考えました。

もうひとつ、私がもし仕事で都内に出かけることが頻繁に発生するのであれば、実家で過ごすべきではないとも思いました。幸い、9月中は都内に出社する予定が入っておらず、オフィスに出社せずになんとかなりそうな見込みがついていました。職場に感謝です。両親にも自分たち夫婦の考えを伝えて、理解を示してもらえたので、9月1日から別居を始めることができました。両親にも感謝です。何より、ひとまず約1ヶ月くらいの期間、1人で子供たちと過ごすことを決めてくれた妻と私が別居することを理解してくれた子供たちに感謝です。

家族の中で私だけが安全(感染リスクゼロではないけど)なところに避難してきた感じになり、本当にこれでよかったのかな・・・、ここまでする必要があったのかな・・・、他に何かできることがあったんじゃないかな・・・、と気持ちはかなり揺れました。

それでも今はとにかく、私は私のできることとして、在宅勤務で仕事すること、万が一のことがあった場合には臨機応変に的確に対応できるようにしておくことだなと思います。

別居という選択肢があったこと、それを選択できたことに感謝です。

 

素敵な明日を。