泳ぐオダジン放送局

日々フラフラっと回遊しながら気づいたことをラジオでフリートークするようにお届けします。ラジオ好き、少年ジャンプ好き、ハンバーガー好き、ヒトが好き。※本ブログの内容は、私個人の考えです。所属する組織・団体とは関係ありません

調べる力と知りたい気持ちを分けて考えてみた

今日は先日参加した「シラベリスト〜調べる力〜」の本題だった、調べる力について私なりに考えてみたことを書いてみます。

調べる力って何だろう?

私なりの定義は「何かについて知りたいと思ったときに以下のような行動をとることができること」です。

  1. どこにどんな情報があるかなんとなく知っていること
  2. 欲しい情報に関連する情報ソースを探し出せること
  3. 情報ソースの中から欲しい情報を見つけ出すこと
  4. 複数の情報を確認してより的確な情報を選び取ること
  5. 情報の真偽を確認(場合によっては検証)すること
  6. 欲しい情報がなかったら自分で実験する(試してみる)こと
  7. 調べた結果を整理すること
  8. 整理したことを人に伝えること

これらは調べる力、スキルとして鍛えることが可能な領域だと思います。

知りたいと思う気持ちはどこから来るのか?

調べる力は「何かについて知りたい」と思ってから必要とされます。この「知りたい」という気持ちは誰にでも簡単に湧いて出て来るものではないようです。参加していた皆さんのお話からすると、だいたいこんな状況になっていると「知りたい」気持ちが湧いてこなくなってしまうようです。

自分の頭の中が整理できていない

新人研修のクラスマネージャーを担当しているときによく聞くセリフNo. 1が「何がわからないんだかわからない」です。今まで触れたことのない領域のことを一気に情報シャワーとして浴びせられて、頭の中で情報整理が追いついていない状態です。この状態になると、自分の無知さに気づかされてガッカリしたり、何から手をつけて良いかわからなくなったり、全部理解するのは不可能だと諦め始めたり、といった兆候が見えるようになります。さながら知識の沼にハマり込んで動けなくなってしまうような・知識の暗闇に覆われて前が見えなくなったような、そんな状態と言えます。そんな状態では「知りたい」という前向きな気持ちを生み出すことが難しいので、私はまず努力を労い、チャレンジを励まし、ちょっと先のゴールを光で照らしつつ、頭の中の整理を手伝うようにしています。

乗り越えた先に目指すものや得たいものがない

後述する純粋な知識欲求ではなく、人が何かを知りたいと思うときは、自分の目の前に起きた事象をクリアしたい(しなければならない)ときだと思います。社会人であれば仕事上の課題解決の場面がわかりやすいです。学生の場合は試験の問題を解くこともその1つになり得ると思いますし、部活などでもっと上手くなりたいと思うこともその1つになると思います。ここでポイントなのは、ただ単に困難な状況に直面するだけでは足りないのではないかということです。

例えばロールプレイングゲームで簡単には解けない謎や、簡単には倒すことが出来ないボスキャラがいたとします。この状況に直面したときに、なんとかクリアしたい!と思うかどうかは「ゲームの先に進みたいから」「特別なアイテムを入手したいから」「エンディングを見たいから」のような困難を乗り越えた先に得たいものや目指すものがあるからです。

学校でも会社でも「自分の将来の夢や目標を考えて、そこを目指して・・・」となりがちですが、現実的にはそもそも自分の将来を具体的にイメージできる人はごく僅かしかいません。本当になれるとも思っていないような漠然とした自分の将来に向けて、目の前の難しいことに対して前向きに取り組みなさいと言われてもピンと来ないのが本音だと思います。また、自分の将来や今の自分が欲しいものは、誰かに与えてもらうものではなく、自分で気づいていくもの、作っていくものなので、十把一絡げにできるものではありません。

子供でも大人でも、報酬(見返り)を用意することで困難な状況にチャレンジをする意欲を喚起することがありますが、キッカケとして活用することはできても、体験から「知りたい欲求や知ることの楽しさ」を自分のものにできなければ、キッカケで終わってしまいます。前述のロールプレイングゲームは困難への挑戦と報酬が繰り返されること、適度にその難易度が上がり続けることが巧みにデザインされており、ゲームを続けたい欲求や楽しさを知らず知らず自分のものにしていると言えます。プレイフルラーニングという言葉がありますが、ただ単に一度体験してみて楽しいだけではなく、知らず知らずに自分のものになっていくようなプレイフルな学びをデザインしていきたいです。

知ることの楽しさを知らない

私の周りには知ることを楽しんでいる人「知識欲求の強い人」がたくさんいます。そのような人たちを見ていて思うのは「自分の知らないことに触れることを楽しんでいる」ということです。知らないことを知ることで自分の知識が積み重なっていく、ゲームで言えば敵を倒して経験値がたまっていくような楽しみ方はもちろんですが、それ以上に見ていて感じるのは「自分の得意領域に関連付けて考えることで自分の得意領域を拡大させている」点です。
知りたいという欲求が低い人、直接的に関係のあることにしか興味がない人たちには、この「何かと何かを関連付けて考える力」が弱いように感じます。インターネット、特にツイッターなどのSNSでは自分の興味ある情報だけを取捨選択することが可能です。放っておくと自分の興味の範囲外のことに触れる機会がなくなりやすい環境にあると感じます。もちろん好きなもの興味のあるものをトコトン追求することは大切ですし、ある一定のレベルに達するからこそ、他分野のことと関連付けて考えることができるようになるかもしれません。

インターネットがあれば調べる力は不要?

インターネットはツールなので、例えば図書館や博物館のような知識の宝庫、百科事典などの書籍、アンケートなどの調査方法の代替手段に過ぎません。インターネットがあろうがなかろうが、使おうが使うまいが、調べる力は必要だと私は考えています。

インターネット特有の調べる力としては、前述の調べる力に以下の点を追加したいです。

  • 知りたい情報に辿り着くためのキーワードを考えられること
  • 検索を繰り返してキーワードをブラッシュアップできること

デジタルネイティブ世代と言われる若者たちと接していて驚くのは、検索サイトをあまり使わないということです。検索サイト自体は知っているし、使い方も知らないわけではないのですが、どんなキーワードを入れれば知りたい情報に辿り着けるのか、利用経験が少ないので勘所が抑えられていないと感じます。ニュースサイトのトピックや、オススメ・関連記事のハイパーリンクを辿ることが中心になっていると、情報を入手することも受け身になりがちのようです。(ハイパーリンクを辿った結果、自分の興味外の情報に出くわすセレンディピティもインターネットの魅力です)

学ぶことの楽しさはどこにあるのか

知ることを学習段階のひとつのプロセスだと考えると、知るの後工程である「わかる」「できる」まで辿り着かないと、知ることの楽しさに気づけないのかもしれません。と言うよりも、どの段階を楽しいと思うのかどうかは人それぞれに違うのだと思います。
学習の仕方で見ると、例えばとりあえず体験する人、やってみて体で覚える人がいたりします。知りたいと思ったときに誰もが知識から入るとは限りません。ひとつひとつ細かく丁寧に順を追って理解していきたい人もいれば、まずざっくりと全体像を掴みたい人もいます。これってつまり自分にとっての楽しい学び方、楽しめる学び方なんじゃないかなと思うのです。こうやって書いてみると「学習のデザインって自分にあった学習を自分でデザインするのが1番良いんじゃないか!?」と改めて思わされますね。。。学校教育や集合教育の難しさを感じます。(教育と学習という言葉の違いに繋がりそうですね)

 

ちなみに私はこうして毎日ブログを書いてみて、学んだことや自分の考えたことを書く楽しさ、読んでもらう楽しさを覚えつつあります。

 

素敵な明日を