泳ぐオダジン放送局

日々フラフラっと回遊しながら気づいたことをラジオでフリートークするようにお届けします。ラジオ好き、少年ジャンプ好き、ハンバーガー好き、ヒトが好き。※本ブログの内容は、私個人の考えです。所属する組織・団体とは関係ありません

窓の外を5人で眺めていたときに起きたことから、わかりあうことについて考えてみた

今日は、今、1番じっくり話してみたい人が書かれていたこの記事へのアンサー?ブログです。

どうしても、孤独からは逃れられないという事実と理由について|あかゆしか|note

なぜこの記事を書こうかと思ったかと言うと、今朝、リンク先の記事を見たあとでタイムリーにこんなことが起きたからです。

5人で同じ景色を見ているのに、1人だけ7号館が見えない私

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ある場所で窓の外を眺めていたところ「あ、あれは母校の7号館だ」という一言をきっかけに、そこにいた残りの4人が一斉に窓の外を見ました。

1人、また1人と、窓の外の景色の中から7号館を見つけていきます。「あぁ、あれね」「そう、あれあれ」などと会話が聞こえてくるのですが、私にはまだ7号館が見えないままです。

「えっ?どこ??」と私が発したのをきっかけに、4人が一斉に窓の外を指差して、「あれあれ、指の延長線上に」「建物の左上に7って書いてある」と教えてくれるのに、私にはまだ7号館が見えないままです。

「え?どこどこ?わからん!」と私が発したのをきっかけに、1人が「雪印の看板があるでしょ、そこの左の」と、今までとは違う説明(例え)で7号館の見える位置や建物の特徴を説明してくれました。

雪印!?ますますわからないんですけど・・・」私は若干あきらめかけましたが、4人はあきらめません。1人が周囲の建物の形状や色合いなどを細かく説明し始めました。なんとなく建物がどのあたりにあるのか位置関係がやっと掴めましたが、まだ7号館がどの建物なのか特定できません。

「え?どれどれ?左上に7ってどれ??」と私が発する横で、1人がスマホをカメラモードに切り替えて窓の外をパシャッと撮影して、7号館の写った写真を私に見せてくれました。私は写真の建物と自分の眼に映る窓の外の景色を照らし合わせて、やっと、「あぁ〜、あの建物が7号館なのね!」と残りの4人と同じ景色を認識できました。

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「私の視力が悪くて建物に書いてある7の文字も雪印も識別できてなかったわけね」と私が発したところ一同軽くズッコケました。すかさず「眼鏡買い替えに行きましょう!」と提案されましたが、「普段そんなに遠くを見る必要ないから買い替えませーん」とやりとりしてこの会話に一区切りつきました。

わかりあうとこと自体に意味はない?

この一見すると(深く考えても?w)どうでも良いやりとりから、人がわかりあうということについて私なりの考えを書いてみます。

前提として、他人の見ている視界や、頭の中で考えていることをそっくりそのまま体感することや共有することは不可能だと私も思います。

もしかしたら未来の世界では、何かの手段で誰かの視界や思考を共有すること(誰かになりかわるようなこと)ができるようになるかもしれませんが、もしそうなっても私はそれを使いたいとは思わないです。

なぜなら、相手の見ている世界や考えていることをそっくりそのまま、完璧に体感したり共有することそのものに意味を見出せないからです。もちろん興味がないわけではありません。好きな人や憧れの人が何を見て何を思って過ごしてるのか、気にならないと言えば嘘になるかもしれません。でもそれを知ることそのものにはやはり意味を見出せません。

わかりあうとは何なのか?

私なりにわかりあうとはこんなことなのかなと思います。

  • 自分と他人の間で、何か特定の出来事や事象に対する解釈について共通の理解が生まれた状態
  • 共通の理解は必ずしも「一致」だけではなく「不一致」なことも含めて双方がお互いの解釈を認識し合えた状態

多くの人は一致することが、わかりあえた状態だと思っているように感じますが、不一致であることを認識し合えた状態もわかりあえたと言えると私は考えています。

わかりあうために必要なことは何なのか?

わかりあうことを上のように定義した場合、私なりに必要だと思うのはこんなことです。

  • 自分と相手の間に同じ目的や共通のテーマを持っている(もしくは持ちたいと思っている)関係にある
  • 一定レベル以上の関係性が構築されていること、もしくは関係性を構築しようとしていること
  • 事実と解釈を分けて伝えること、相手の話を聞くことができること
  • 相手と自分の解釈に一致・不一致が起きた時に、理由となる背景や考え方・価値観についてお互いに話し合うこと

理由となる背景や考え方・価値観までわざわざ話すかと言われると、日常的には話さないことが多いと思います。ですが、相手とわかりあおうと思った時には、ここまで話し合う必要があると私は考えています。

なぜわかりあう必要があるのか?

【わかりあう=自分と相手の間に共通の理解を作ること】だとすると、わかりあうことそのものを目的とするのではなく、わかりあうことは、自分と相手の間に共通の目的・ゴールがあり、そこに到達するための手段と私は考えています。

目指すべきことについて一緒に何かを考えたり、アクションを起こしたりする関係性の場合、共通理解を作ることで関係の質が向上すると思考や行動に対してプラスに作用します。(参考:組織の成功循環モデル)

裏を返せば、何の共通の目的やゴールも無い人とわかりあう必要はないと言えます。例えば仲良くなりたいと思っている2人はお互いをわかりあおうとするけども、見知らぬ同士はわかりあおうとしないですし、わかりあう必要性はありません。もちろん、見知らぬ人とも会話を始めたらそこから何かが生まれる可能性はゼロではありませんので、何かを生み出そうとする人はわかりあおうとするのだと思います。

人は孤独なのか?孤独ではないのか?

自分とまったく同じ人(感覚レベルで同じ世界を共有できる人)はこの世に存在しないので、そう考えると人は孤独であるとも思えます。

一方でわかりあうことを上に書いたように定義したとすると、人は何かしらの活動をするときに、目的やゴールを共有する自分以外の誰かと関わりを持つことになるため孤独ではないとも思えます。

どっちの考え方があっても良いなと思いますし、私は孤独だなと思う自分と孤独ではないなと思う自分、どちらにも行ったり来たりしています。

孤独を感じる良さも悪さもあり、孤独ではないと感じる良さも悪さもあり、どちらも感じることができるのは人間の良さなのかなと思います。

 

ちなみに窓の外を一緒に眺めていた5人は、今まさに立ち上がり、こらから一緒に事を成していこうとしている5人組です。私はこの体験を通じて、5人がさらにひとつわかりあえたのではないかなと感じています。 

 

素敵な明日を